この社会を蝕む病の原因は「人を何故殺してはいけないか?」に答えを提示していない事だ。

「何故、人を殺してはいけないのか?(自分には分からない)」


自分が10代だった時にほぼ同年代の人が、テレビ番組内の討論で口にした。


私の記憶に鮮明に残っているのは、彼の言葉そのものではなく、
彼の問いにその場にいた大人が誰一人明確な答えを提示できなかった様だ。


私はその大人たちを無様だと感じた。

 

この体験が、以来【社会人も社会も基本的には信用しない私】を形成するのに与えた影響は少なくない。


「僕がまだ分からない高度な言説やシステムで社会は成り立っている」
という少年の漠たる想いはこの時、揺らいだ。
生放送でなければ、「大人」はカットして放送しなかったに違いない。
「答えのないものには向き合わず、なかったことにしてやり過ごす」
それが社会に過ぎないのだろう、ということをふんわりと実感したのだろう。

 


その場で感情を露わに「懸命に」反論したのは、むしろ若者達だった。
「あなたが殺されることも容認するのか?」
「あなたの大切な人が殺されても、そう言えるのか?」


私は彼らの懸命な【苛つき】には同意した。

しかし、発言者には響かないだろう、と思った。事実、彼の顔は納得しているようには見えなかった。
そう、反論の弁は【それを言い出すと自分達が信じている正解が成り立たない】ということに対する焦りの発露でしかなかった。

私自身、それを自覚した。
あれから20年あまり。

発言者の彼は今、納得しているだろうか?

 


「失いたくない大切な存在ができた」

或いは
「自分は誰にも殺されるべきではない価値ある存在だと信じられている」
そのようにして、過去の自分の発言を若気の至りだと思えているだろうか?

それ以上に気になるのは、
感情論で反発した若者達もまた今そのように思って暮らしているのだろうか?という事である。

 


【そう思えぬままに年齢を重ねている人々が決して少なくはないのではないか?】


Twitterを見ていての私の感想だ。
「差別、ヘイト、セクハラ」をどちらかというと擁護容認する発言、
或いはそれらを批判する人々に対する嘲笑の弁の数々。
濃淡、自覚無自覚の差こそあれ、彼らの叫びは要約するとこうである。


「自分の気に入らない、自分に害を成す他者を殺して何が悪い?」


「少なくとも、この自分の感情を批判する妥当な言説はない!」

 

……。

 


「差別、ヘイト、セクハラ」は「殺人」とは異なるとの反論があるだろう。


何が?

 

だから?

 

である。


差別、ヘイト、セクハラは魂の殺人だ。

身体と命と心をどう区別するのか?

 


「程度問題」だとしても、容認、擁護する理由にはならない。


容認、擁護の根底にあるのは「自分や自分の大切な者を守る為の殺人は当然だ」という価値観である。

 

またその価値観に相反するものを攻撃する理由は、
自分を守る「秩序」が乱れることへの不安である。
「秩序」が自分を守ってくれなくなるものに変わることへの不安である。

 


「差別、ヘイト、セクハラ」或いは「現政権」の批判者、擁護者双方が二言目には、

「日本は法治国家だ」というのはどちらもお笑いである。

「違法か適法か」「起訴か不起訴か」「有罪か無罪か」に自分の価値判断を委ねているわけである。自信がなさ過ぎる。


実際、我が国は先進国で唯一、国家による殺人「死刑」を適法としている。


個人の尊厳よりも秩序維持の為の殺人を優先している。


しかし、秩序とは何なのか?
秩序が自分を殺しにくることはない、という無邪気な思い込みは何なのか?

 

 


自分は「他人を殺したいとは思わない」からそれで良い、関係ないとはならない。


「自分は殺したくなくても、誰かが殺されるのは仕方ない」となってしまうし、
それ以前に我が国民は日々、犯罪者を死刑で殺している。


20年前はカットができない生放送に少数者が紛れ込まなければ、
社会にとってこうした「不都合な」「考えたくない問い」は表出しなかった。


極端な者が行動した結果の「犯罪」が時に世を騒がすのみだった。
凶悪犯罪は、昨今一貫して件数が減り続けている。
恐らく、極端な価値観を抱く人々も減っていると思われる。
それでも、問題はむしろ大きくなっている。


なぜなら、第一に現在はSNSで犯罪以前の発言と感情が容易に可視化される。
そして、少しずつ支持、理解、一定の妥当性を認められて、
「差別、ヘイト、セクハラ容認感情」は市民権を得つつある。
第二に現在、身近な「大切なものことひと」を守ることで満足する人生は、過去に比べて非常に難しくなっている。
「人を殺したくない、殺されたくない」というある種当たり前の感情の動機となる「幸福」の絶対数は減っている。
月並みな幸福すら得られないことに「不満、鬱憤、不安」を抱く人々が「差別、ヘイト、セクハラ」意識に取り込まれていく様が観察される。
一方、運良く「幸福を手にした者」はどうか?
もはや「多数派となった幸福を手にしない者」に自身の幸福が脅かされる「不安」をやはり「差別、ヘイト、セクハラ容認感情」に結びつけている様が見受けられる。

 

どちらも割合は分からない。

ただ、確かに存在する風潮である。


そんなにも幸福が社会の中で減っていることを自覚していない人、
見ないようにしている人は、決して議論に参加することはない。


以上を踏まえて、私はあくまで個人的実感として以下のように考察する。


我々の社会はこれまで「何故人を殺してはならないのか?」に対して、
明確な答えを用意する努力を怠った。
それ故の弊害がこの社会のほぼ全員に苦しみを与えている。


この苦しみと風潮の害は何か?
より良い社会と人間を目指そうという意識の足を引っ張ることだ。
この問いにまず、多くの人が共有できる答えを提示すること。
その答えを持たぬ社会への対処法は、
無意味と言わぬまでも本質的な解決策とは成り得ない。
私個人は、

「何故人を殺してはならないのか?」という問いに対して、
今こそ、きちんと答えを表そうと思う。

続く!


—蛇足
現政権が答えを出していないどころか、

「殺すのはやむを得ない」という価値観をバックに運営されていることは、

言うまでもないだろう。


勿論、私はそれ故にその一点で、現政権を支持しない。