すべての世界はあなたの思い込みに過ぎない
物事・人には「部分」と「全体」と「核(心)」がある。
そういう面もあるよね、ってのが部分で、
それらの集合体が全体。
本質的、或いは最も重要な点が核(心)。
と規定してみよう。勝手に。
まず、
ー部分だけを見て物事や人を判断する向きが、あまりに多すぎるように思われる。
また、
ー全ての部分、つまり全体を捉えることはかなり難しい。
大抵、すべてを見ることすら叶わない。
更に、
ー物事人の核(心)は時と場合で異なる、
というようなことはかなり容易に想像できるだろう。
モノコトヒト概念は名詞である。
名詞A、Bに限ってみて、思考を進めてみよう。
特定の「あの人」「あの事」「抽象概念」などを思い浮かべて欲しい。
我々はいとも簡単に、
AはBだ!と決めつけてしまってはいないだろうか?
A=Bが成り立つということは、
Aが真ならば、Bが真、が成り立つ。
Bが真ならば、Aが真、が成り立つ。
という必要十分条件を満たす、
ということになる。
少し考えてみると、
必要十分条件が成り立つ関係は、
数学?上でしか存在し得ないと気づくはずだ。
実際の生活では必要十分条件はあり得ない。
だから、AはBだ!というすべての言葉は、
AとBが数字でない限り、
誤りである。
そんなバカな!
だったら会話や社会は成り立たないではないか!
実はその通りなのだ。
だから、社会は成り立っていない、
とも言えるし、
それでも成り立っているものがあるなら、
それは思い込みで成り立っているに過ぎない。
私(A)は男(B)だ。
誰かにとっては疑いようのない真実、事実であろう。
しかしこの「真実」の裏には、
私とは何か?という哲学的な問いを置いても、
男とは何か?という問いが隠れている。
生物学的に?戸籍上?あるいは…?
「私は彼の恋人だ。」
でも本当に恋人なのかしら?
そういう疑問はふとしたときによぎるものである。
恋人の定義、付き合うこととは何か?
日常の中で自明視されていたものが、
ふと揺らぐことがある。
しかし、本来、すべては揺らいでいるのだ。
言葉とはそういうものなのである。
そして、
言葉で我々の世界、社会、日常は成り立っているのだ。
ありとあらゆる言葉の定義は、
極端にいえば万人ひとりひとりにとって、
異なる。
ふわっとした全体、
重要な部分を共有しているに過ぎない。
そして繰り返しだが、
核はその時その場面で、その位置が動く。
Aとは何か?Bでないものだ。
という二元論では決して本質はつかめない。
昨今のSNSの興隆で、本どころか長文が読まれなくなっているらしいが、にもかかわらず、
我々一般人が言葉を書いて発信する機会は増えている。
名詞だけに限っても、このようにその意味は揺らぐのに、まして、
美しい、正しい、といった形容詞に至っては多分にその人の主観が強くなる。
自分の言葉の妥当性は、常に疑わなくてはならない。
他人に容易に押しつけるに耐え得るものではない。
自分の中の妥当性が言葉で他人にそのまま伝わる、
とも思ってはいけない。
なぜならば、あなたが使った言葉の意味は、
受け取り手には同じ意味ではないからだ。
かといって、自分だけに向けるのも危険だ。
自分の言葉は無価値に無意味に自己を縛り得る。
世界を正しく認識する道具となっている保証は、なにもない。
言葉を持つ以上、
世界そのものがひとりひとりにとって、
最初から異なるのである。
物、事、人、概念は関係で成り立つ。
関係を捉えるのが上手な者は、
以上話してきたことに無自覚であっても、
言葉を間違うーそれはつまり生きることを間違うということだがーことは少ないだろう。
このことを最も手っ取り早く教えてくれるもののなかで、
誰にでも起こり得て、一番身近であるものが、
恋であろう。
言葉でこれを習得する仕組みが学問とも言える。
おわり。